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ふりかけそーすけ別館 ver.guardian vein

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7ヶ月ぶりに投稿再開しました

2011年10月 海上自衛隊掃海部隊横須賀集結「ペルシャ湾掃海派遣20周年」(gvein・日報同時投稿)

時間差し迫る現段階での「新米見学者渾身の大作」。time is upまで48時間を切りました。ここが限界!『日報』、『gvein(別館)』同時投稿。いよいよ「time is up」目前です。今夜は、2011年10月20日の海上自衛隊さん掃海部隊満艦飾の記録と共に20年の時を遡ります。この日、長浦港を華やかに彩った掃海艦艇さんがたの満艦飾は、「ペルシャ湾掃海派遣」から20年めを迎えた時の流れと、忘れてはならない大切な事を思い出させる為、そして恒久の平和を願う世界中の人々の願いでもあったように思います。風に張る数多の色とりどりの旗は願いを込め束ねる千羽鶴のようでした。今投稿最初の画像は、神戸よりお越しの第42掃海隊・掃海艇「まきしま」さん、呉よりお越しの第101掃海隊・掃海管制艇「さくしま」さん、「いえしま」さんより始めます。中央の「さくしま」」さん、後に改めて、ご登場になられます。
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掃海艦艇さんがたの後方は、その機能を凝縮する「象徴的」なお姿でもあります。また、『YOKOSUKA軍港めぐり』に乗船するお客さまの多くは、掃海艦艇さんがた前方の艦番号・艇番号を見ただけでは、お名前まで判りません。新米見学者も、この3年をかけてようやく「完璧」に覚える事が出来ました。「暗記」ではありません。青森県・宮崎県を訪れ、掃海部隊の皆様の訓練を見学し、日本各地へ見学に訪れ、『YOKOSUKA軍港めぐり』に何百便も乗船し、ようやく覚える事が出来たのです。しかし、新米見学者の3年は掃海部隊の皆様の「歴史」の中では、「瞬き」に過ぎません。
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呉よりお越しの第1掃海隊・掃海艇「あいしま」さん(688)、「いずしま」さん(687)、横須賀の第41掃海隊・掃海艇「つのしま」さん。
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佐世保よりお越しの第2掃海隊・掃海艇「ひらしま」さん、「やくしま」さん、「たかしま」さん。
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横須賀の第51掃海隊・掃海艦「はちじょう」さん、「やえやま」さん。
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呉よりお越しの掃海母艦「ぶんご」さん、第43掃海隊・掃海艇「うくしま」さん、「とよしま」さん。
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函館よりお越しの第45掃海隊・掃海艇「とびしま」さん、「ゆげしま」さん。
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そして、沖縄よりお越しの第46掃海隊・掃海艇「くろしま」さん、「ししじま」さん、「あおしま」さん。

10月20日に長浦港にて満艦飾をなさっていた全19隻の掃海艦艇さんがたです。掃海部隊の艦艇さんがたは全29隻。現在、ペルシャ湾にて行われた「米英共催多国間掃海訓練」より帰国の途についておられるであろう掃海母艦「うらが」さん、第51掃海隊・掃海艦「つしま」さん、20日午前までに出港された第41掃海隊・掃海艇「すがしま」さん、「のとじま」さん、第42掃海隊・掃海艇「つきしま」さん、「くめじま」さん、第43掃海隊・掃海艇「なおしま」さん、第44掃海隊・掃海艇「ながしま」さん、「まえじま」さん。そして、第1掃海隊・掃海艇「みやじま」さんにて全29隻となります。
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長浦港をぐるり彩られていた掃海艦艇さんがた19隻の満艦飾。冒頭にも書きましたが、「ペルシャ湾掃海派遣20周年」を記念する掲揚でありました。20周年。キーボードから簡単に入力出来ますが、その20年の重みは、到底、書き尽くせるものではありません。むしろ、新米見学者如きが投稿して良いのか…とさえ思えます。しかし、現在、掃海部隊の皆様の見学記録を続け、投稿を続けているのです。知らぬふりは出来ませんし、するつもりも勿論ありません。しかし、まだ勉強途上。まだまだ判らぬ事ばかりです。当時、ペルシャ湾掃海派遣部隊として遠き炎暑のペルシャ湾へ向かわれたお方のお話を直接お聞きする事は僅かに出来ていますが、全くの氷山の一角。いえ…熱き砂漠の砂を僅かに両手ですくい上げた程の時間です。
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今年5月、ようやく訪れる事の出来た海上自衛隊さん呉史料館「てつのくじら館」2Fの「掃海艇の活躍」のフロアで上映されていた映像より。

「1991 湾岸戦争終結」 
「ペルシャ湾に残る1000以上の機雷除去は国際社会の至急の課題!」
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掃海艦「つしま」さん内にて見続けた「湾岸の夜明け作戦 ペルシャ湾掃海派遣部隊の活躍」の映像より。20年前の吉倉桟橋を出港される掃海艇さん。お見送りする多くの方々…
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1991.04.26 500tに満たない掃海艇が遥かペルシャ湾への航海に乗り出した。
【派遣部隊の編成】
呉、佐世保、横須賀を定係港とする掃海母艦「はやせ」、掃海艇「ひこしま」「ゆりしま」「あわしま」「さくしま」と、補給艦「ときわ」の6隻、人員は第1掃海隊司令落合1等海佐以下511人で派遣部隊が編成された。遠い海外での長期作戦のために特別に編入された「ときわ」には、燃料、生鮮食品・込め・冷凍食品等150品目のほか、艇のエンジン、掃海用ケーブル、オイルフェンス、各種配管材料のほか、ボルト・ナット類まで合わせて約3,000品目を搭載し、掃海作業に支障が出ないよう万全の態勢を整えた上で派遣された。
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1991.06.19 最初の機雷掃討作戦
平成3(1991)年4月28日に全派遣部隊が鹿児島県奄美大島の笠利湾に集結し、ほぼ1ヶ月後の5月27日に当面の目的地であったアラブ首長国連邦ドバイのラシッド港に入港した。6月2日には日本が担当するクウェート市東方約100kmのMDA(機雷危険海域)7に移動を開始し、5日から作業を開始した。まず音響・磁気機雷掃海具で「複合掃海」に着手し、これを繰り返してMDA7の安全海域を拡大した。19日から後段の「機雷掃討」に移り、その直後に「ひこしま」が沈底機雷を発見し、S-4を使ってはじめて爆破処分を行った。20日には「さくしま」の処分員が係維機雷を爆破処分し、7月20日までに合計17個を処分し作業を完了した。
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「最悪の海域」MDA10の掃海
MDA10は、チグリス川とユーフラテス川とが合流したシャトル・アラブ川の河口に近く、水深が浅く濁って視界が効かない上に潮の流れが速く、加えて海底に石油パイプラインが走り、米海軍掃海部隊から「最悪の海域」と呼ばれていた。イラク軍は、多国籍軍の上陸作戦を阻む目的で、この海域に伊国製沈底機雷マンタを含む多数の機雷を敷設した。7月29日から作業を開始し、潮の流れが止まる午前・午後の各2時間に集中して作業する手法がとられた。8月2日には1日で12個の機雷を発見する記録を作り、14日までにさらに5個を処分した。19日までにMDA10における全作業を終了した。この間、別任務で派遣された1隻がクウェート沖の航路帯拡幅作業に従事し、従来より700m広くする成果を上げた。
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1991.09.11 作業開始から99日目。静かな機雷との戦いは終わりを告げた。
【MDA周辺での航路帯拡幅作業】
MDA10の掃海作業終了後は、もっぱら航路帯拡幅作業に当った。9月1日から3日まで、クウェートの主要港に入る最も広い水路の拡幅作業に従事し、幅を2,000ヤードから3,000ヤードに広げた。6日、クウェート市南部のシュワイク港を出港し、午後からサウジアラビア・カフジ沖のアラビア石油の海上油井の東側に位置するMDA6の拡幅作業を開始し、8日まで継続した。その後、部隊はアラブ首長国連邦のアブダビに向け航行、この間に池田防衛庁長官から機雷の除去に関する任務終了の命令を受けた。作業開始から99日目のことであった。沈底機雷21個、係維機雷13個の処分、3箇所の航路帯の拡幅作業という大きな成果を上げた。
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国内外の期待に応えた、ペルシャ湾での掃海部隊の活躍
【任務をやり遂げた隊員たち】
ペルシャ湾派遣は、戦後初の海外における作戦任務であった。国内に派遣について賛否両論あり、その中を出発した隊員たちの精神的負担、ペルシャ湾の最奥部での困難な掃海作業に対する不安にもめげず、無事に任務を遂行し、日本国民の期待に応えるとともに内外の懸念を一掃した。今後の我が国の針路について、「国際貢献」なくしては内外の理解を得られないことを立証した点で、この派遣は画期的であった。
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機雷によって恐怖に包まれた湾岸に、平和な夜明けを取り戻す。
【湾岸の夜明け作戦】
平成2(1990)年8月、イラク軍のクウェート侵攻で始まった湾岸戦争は、翌年1月から多国籍軍の空爆、続く陸上部隊の進撃によるクウェート解放、イラク軍の壊滅的敗北で終了した。あとには油断から上がる炎と空をおおう黒煙、沖合に敷設された1,260個以上の機雷が残された。ペルシャ湾には石油積出港が多数あり、機雷により石油積出が中止となれば影響は全世界に及ぶ。中東石油に依存する我が国も座視できない問題であり、掃海作業への協力は世界経済の安定に貢献するとの見地から掃海部隊派遣が決定された。
平成3年6月から旗艦「はやせ」の指揮、補給艦「ときわ」からの補給を受け、掃海艇「あわしま」「さくしま」「ゆりしま」「ひこしま」による作業が開始された。はじめ複合掃海・機雷掃討の方法で行われたが、のちには機雷掃討だけで沈底機雷21個、係維機雷13個の合計34個を処分し、一方、重要航路の安全を確かめる作業を行った。

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痛々しく変形した掃海艇「あわしま」さんのフロート。フロートとは浮き。
「フロート(小)(浮き)掃海艇が係維掃海時に展開器をこのフロートに吊下して使用する。このフロートは、ペルシャ湾で発見した機雷を処分した際に被害を受けた。」
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水中の障害物を排除して、船の安全な航行を確保することを航路啓開という。海中の機雷を取り除く掃海は、きわめて危険な業務であり、戦争が終わっても継続される戦いである。

掃海作業は終戦直後から継続
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直近の「掃海」、不発弾の水中爆破処理の記事です。NHKさん沖縄ニュースより転載させて戴きました。
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「沖縄基地隊」の皆様が行われました。沖縄基地には、今回横須賀に来られた第46掃海隊・掃海艇「あおしま」さん、「ししじま」さん、「くろしま」さん、沖縄水中処分隊の皆様がご所属です。
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丁度1年前となる11月3日、下関基地隊の第43掃海隊・掃海艇「とよしま」さん、「うくしま」さんが関門海峡にて不発弾9発の爆破処理をされました。
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更にその前年の6月12日には神戸港にて発見された戦時中の不発弾を第42掃海隊の皆様が爆破処理されました。当時、映像をご覧になられた方々も多くいらしたと思います。

【戦後の掃海の歴史】
第2次世界大戦が終わった昭和20年当時、日本の沿岸海域には米国戦略爆撃機(B-29)が敷設した約1万700個の機雷と、日本海軍が防御用に敷設した約5万5000個の機雷が残存していました。これらの機雷による船舶の沈没や損傷は、昭和27年まで166隻・約20万トンにも上る甚だしいもので、これら機雷を除去し、海上交通の安全を確保することが、我が国復興上の急務とされました。

機雷の危険を排除するための掃海業務は、戦後直後、海軍省軍務局に設置された掃海部がこれを開始しました。その後、連合国軍管理の下に、第2復興省、運輸省、海上保安庁へと移管され、航路啓開業務として継続されました。

昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約が調印され、これを機に連合国の管理下にあった航路啓開業務は正式に日本政府に移管されました。昭和27年4月、海上保安庁に海上警備隊が設置され、更に同年8月に保安庁が創設されると、海上警備隊は警備隊として同庁に吸収されました。これと同時に航路警戒業務も海上保安庁から掃海船及びその要員とともに警備隊に移管され、昭和29年に防衛庁が発足してからは、海上自衛隊がこれを行ってまいりました。

【掃海隊群の変遷】
昭和29年7月に自衛隊が発足、同年10月、防衛庁長官直轄部隊として第1掃海隊群が新編され、さらに昭和36年には自衛艦隊の下に第2掃海隊群が新編、昭和44年には、第1掃海隊群も自衛艦隊の下に編入されました。これ以降、第1掃海隊群は主に業務掃海と諸訓練を、第2掃海隊群は主に戦術その他の研究開発を担当しました。

現在の掃海隊群は、平成12月3月に第1掃海隊群と第2掃海隊群が1つに集約されて誕生した部隊です。
この間、戦後の復興を支えた航路啓開業務はもとより、平成3年には湾岸戦争後のペルシャ湾掃海作業のため、自衛隊初の国際貢献として海外に派遣されるなど、掃海隊群は常に時代の先駆けを担う部隊として活躍して参りました。

【機雷戦部隊の編成】
機雷戦部隊は、掃海隊群隷下の部隊と地方隊隷下の掃海隊(6個隊(掃海艇18隻)及び航空集団例かの航空部隊(1個航空隊(10機)で構成されております。
 機雷戦部隊の編成は、次のとおりです。
掃海隊群ー司令部(横須賀)
┣うらが(横須賀)
┣ぶんご(呉)
┣第1掃海隊「いずしま」「あいしま」「みやじま」(呉)
┣第2掃海隊「ひらしま」「やくしま」「たかしま」(佐世保)
┣第51掃海隊「やえやま」「つしま」「はちじょう」(横須賀)
┣第101掃海隊「さくしま」「いえしま」(呉)
┣掃海業務支援隊(横須賀)ー呉掃海業務支援分遣隊(呉)

各地方隊
┣第41掃海隊「すがしま」「のとじま」「つのしま」(横須賀)
┣第42掃海隊「つきしま」「くめじま」「まきしま」(神戸)
┣第43掃海隊「なおしま」「とよしま」「うくしま」(下関)
┣第44掃海隊「ながしま」「まえじま」(舞鶴)
┣第45掃海隊「とびしま」「ゆげしま」(函館)
┣第46掃海隊「あおしま」「ししじま」「くろしま」(沖縄)

航空集団ー111FS「MH-53E」「MCH-101」(岩国)

(掃海隊群『機雷戦部隊』のパンフレットより転載させて戴きました)
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今夏陸奥湾にての「平成23年度機雷戦訓練・掃海特別訓練・潜水訓練」の際の掃海母艦「うらが」さん、掃海輸送ヘリコプターMH-53Eさん。
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「ペルシャ湾掃海派遣20周年」。2011年10月は、まさに掃海部隊の皆様が横須賀に集結されていた事が判ります。10月12日、護衛艦「ひゅうが」さんには、掃海輸送ヘリコプターMCH-101さんがた。特別な10月であったのです。美しいだけの電灯艦飾、華やかなだけの満艦飾ではなかったのです。見学記録僅か3年の新米見学者。2008年8月2日に横須賀を訪れていなければ、この投稿も、系列の海上自衛隊さんブログも、莫大な数にのぼる海上自衛隊さんの見学記録も存在しなかった事でしょう。「横須賀の花火大会を撮ってみようかな…」と思い、情報を調べていたところ、海上自衛隊横須賀地方総監部さん一般開放『ヨコスカサマーフェスタ2008』が行われる事を知り、「海上自衛隊さんは見学した事がないので、行ってみよう」。しかし、右も左も判らぬ超一般民間人。のろのろと午後1時過ぎに横須賀に到着。ヴェルニー公園より初めて「飛行救難訓練展示」を見学。そして、横須賀本港にぷかぷかと浮かぶ、黒いラバーの球体2個を初めて目にしたのです。「あの黒いぷかぷかは何…?もしかして、機雷?」(よく機雷と判ったものです。後に90年代に職場のマシンで、「マインスィーパー」を熱心に攻略していた事を思い出します。機雷は自分の職場のマシン内に存在していたのです)。
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そして、初めて目にした機雷と水中処分員さんがた。自分の中で最早「伝説」となった「横須賀水中処分隊展示ver.2008」。盛夏の酷暑に漆黒のいでたちの水中処分員さんがたには、大変強烈なインパクトおありでした。おしゃれなスタンドに載せられた機雷。当時の杉山隊長=現・第46掃海隊司令の力説が2011年10月へ、現在へと繋がったのです。

「湾岸戦争後、日本は金を出したが汗はかかないと云われましたが、
我々海上自衛隊掃海部隊が…」

このくだりは、まさに心臓鷲掴みにされたかのような衝撃でした。「日本は金は出したが汗はかかない」。1991年当時、幾度も目に耳にした日本一国民として口惜しい国際社会からの評価。しかし、自分は、この時まで、その国際社会からの冷ややかな評価を覆した方々の事を殆ど知らなかったのです。愕然としました。自分は知らなかった。積極的に知ろうとしなかった。その事を恥じ、海上自衛隊さん、水中処分員さんがたの見学を始めたのです。「マニア」ではありませんから、右も左も何もかも判らない。約2年後に、この「伝説の横須賀水中処分展示ver.2008」に、ペルシャ湾掃海派遣部隊として向かわれた水中処分員・橘さんがいらした事も判りました。
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横須賀地方総監部さん入口で、真っ先に目に入った水中処分員さん。カメラを向けた、その時、橘さんが処分艇さんの自衛艦旗を手にとり振られたのです。新米見学者は、この時、初めて「自衛艦旗」を間近にしましたし、まして、水中処分員さんを間近にしたのは初めての事でした。映画の撮影現場に来ているかのような錯覚も起きました(95年頃の『自衛隊へいこう!』の藤野での撮影現場を思い出したのです)。
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また、当時の杉山隊長が着ていらしたTシャツのバックプリントも大変強いインパクトがありました。目が釘付けになったデザインです。後に、デザインをなさったのは、やはりペルシャ湾掃海派遣部隊として向かわれた水中処分員・土田氏である事も判りました(多彩なお方です)。昨年、高松港にて初めてお会い致しましたが、拙い新米見学者の質問に一つ一つ答えて下さいました。その時、土田氏が写真にとてもこだわりがおありである事を教えて戴き、また水中写真家・中村征夫氏のお話が出た際、中村氏が奥尻島で北海道南西沖地震の大津波に遭われた事に至り、「水中処分員さんがたが災害派遣で向かわれていましたね…」と、当時の状況をお訊きしました。よもや、その翌年、東日本大震災が起き、再び、水中処分員さんがたが災害派遣に向かわれるとは…。
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1991年から2008年8月2日、そして2011年10月へと繋がり、今に至る。大作となりました。時間差し迫る現段階での「新米見学者渾身の大作」。time is upまで48時間を切りました。本当に時間がない!
by guardianvein | 2011-11-03 23:19 | ┣掃海部隊